柏崎を元気にする方法ー4

1 国との連携

 前回まで検討してきた内容を概略すると、①道路・橋梁の老朽化対策、②自然災害・原子力防災対策と避難道路建設、③建物・施設の耐震化対策の必要な事業を実施するだけで、数百億円規模となり、その金が市内に回ることで人も物も動き柏崎は元気になる、と述べてきた。さてその財源である。「どこから金を持ってくるか?」という話である。そこで1番に挙げたいのが「国との連携」である。平たく言えば、「国から金を持ってくる」ことである。

2 国の金を持ってくる方法

(1)制度・施策の研究

 その方法は2つある。1つは市長が身を粉にして働くことだ。もうひとつは国の制度・施策をとことん勉強・研究し取り込み、活用することである。まず後者の「国の制度・施策の取り込み」について考えてみよう。話がここまで進んでくると市当局側では、「これまでも十分に勉強・研究し取り込んできたし、これからもやって行く」そして、「全国の自治体が競争し鎬を削っている中で、柏崎の要望だけが、そう簡単に通るものではない」と言う声が聞こえてきそうである。それも否定しない。だが、そうであればこそ「モットモット知恵を絞り汗をかかなければならない」のである。換言すれば、「モットモット必死で働いてもらいたい」と言いたいのだ。申し上げるまでもなく、国も地方自治体も法律に基づいて仕事をしている。そのことは当然であるし、またそうでなければならない。ところが法律には読み方がある。運用の妙がある。よく「行間を読め」「眼光紙背に徹す読み方をせよ」と言われる。「それをやれ」ということである。これにより国の金を導入し、地域に役立てた話は全国に事例がいくらでもある。その手法を真似てもいい。考え方を研究してもいい。他所がやった話を勉強することだ。そして柏崎の独自性を加えてやれば、それは柏崎方式になる。柏崎のオリジナルである。他所にできて柏崎ができないわけがない。

(2)市長は身を粉にして働け

 もうひとつの方法は、市長が身を粉にして働くことだ。現在の働き方では、誠にもって「不十分である」と申し上げたい。国から金を持ってくることができるか否かは「市長の働きと力量にかかっている」とあえて断言したい。

 以前、こんなことがあった。あの中越沖地震の復興のさなかのことだ。申し上げるまでもない、地震に見舞われたのは平成19年7月16日であった。当時、市議会議員は皆復興活動に奔走していた。しかしながら、なかなか思うに任せず復興が進まない。そこで、市議会として国へ陳情に行った。当時は自民党政権であったこともあり、市議会でベテランの自民党議員を先頭に2班に分かれて上京した。その日が「10月12日」であった。地震発生から約3カ月後である。けっして早い時期とは言えない。その陳情の場に市長が付いてきた。そして自民党本部・永田町・霞が関を回り陳情した。その時、自民党はもとより国の要人に対して、名刺を差し出しながら「初めまして、私が市長です。」と挨拶していたのだ。これには同行していた議員は皆一様に驚いた。地震発生から3カ月も経っているのに、泉防災大臣(当時)を始めとした国の要人に対して「初めて会う」のである。あまりに動きが遅い。鈍い。真剣身が足りない。これは同行者の誰もが感じたことであった。

(3)長島村長はどうしたか

 それより2年前の中越地震の時、当時の山古志村の長島村長は、3カ月後はもちろん地震発生の直後から国に入り込み、「霞が関の廊下に布団を持ち込み陳情した」と言われるくらい、国に浸透していた話は有名である。勿論その効果は目を見張るものがあった。(今、山古志を訪れて見るといい。柏崎との違いは歴然としている。)それに比べ、柏崎市長の動き、働きはどうであったのか??? 国の政策・支援を引き出すためにどれだけ奔走したのか? 大いに疑問である。こういうことはその現場に立ち会った者しかわからない。勿論、報道されることもない。従ってほとんどの市民は知らない。

 以上、財源対策について2点を挙げて述べてきた。このことを真剣に実行するだけでも今よりはよくなると申し上げたい。この点に関してはこの後も角度を変えて検討してゆく予定であるが、今回はここで一区切りとしたい。

<次回に続く>