東京都知事選(2)「選ぶ側の責任」

東京都知事選が告示され投票日が近づくに従って、加熱の度が増しているようだ。16人の候補者がそれぞれの戦いを展開し、自分への投票を呼びかけている。我が国の選挙制度はいろいろな問題も内包していると言われるが、それなりに民主的方法によっていると言えるのではなかろうか。そこで改めて候補者16人を見てみると、はたしてこの人が東京都の顔として相応しいか、あるいは、もし当選したら責任をもって都政の舵取りを任せられるか、等々の疑問を禁じ得ない人もいる。勿論、民主国家である我が国では、何人も有資格者であれば立候補できるし、その権利を妨害することはできない。ならば、選ぶ側がしっかりとした「選択眼」を持たなければなるまい。16人の候補者の中には、知名度の高い人もいるし、名前も顔も初めてという人もいる。おのずと、知名度の高い人に注目が集まる傾向にあるが、かといってそちら側に偏った報道や扱いがあってはならない。これは前回述べたことだ。

さてそこで、知名度が高く過去の言動が取り上げられる人の中でも、任期途中で職責を放り出し、責任を全うしなかった人がいる。その人が今回は「脱原発」を唱え「日本は原発に頼らなくても発展できる」と主張している。勿論、自分の思うところを有権者に訴えることを否定するものではない。ところがそれで、日本最大の電力消費地東京都のトップとなった後、都民の生活を保障できるのか。万々が一にひとつ、百歩も万歩も譲ったとして、その場合の代替案はどうなっているのか。都民・国民を説得できる案を示すべきである。ところが、これまでのところ、候補者本人も応援している元総理もそれを示し切れていない。また、もう一つ例を挙げれば、今回は噂されながら出馬しなかったが、嘗て九州のある県で知事選に出馬し、圧倒的高得票で当選したタレントのケースも思い出される。彼は故郷の為に一身を投じて働くと訴え人気を博した。そして任期期間中八面六臂の働きで、これは「本物かも?」と思わせたものの、1期で辞めて国政に転じ、その後間もなくその職責も放り出してしまった。他にも某有名私立大学の女性教授やテレビ司会者の例もあった。いずれも、知名度を武器に当選したものの、任期を全うすることなく放り出しているのである。それぞれの人が、理由も言い分もあるだろうが、有権者から見れば、「無責任」のそしりは免れまい。

そこでこの辺は有権者がよく見極める必要があろう。ただ断っておくが、タレント候補が総て駄目と言っているわけではない。米国における映画俳優出身のレーガン元大統領のような例もあるとおりだ。要は「人物をよく見極める」ことが大事だ、と言っているのだ。

ある政治評論の中に、東京都民の政治的民度の低さを指摘する論評があった。一頃のタレント候補や極端から極端へ振れる「振り子選挙」の結果を憂いての苦言と受け止められるが、確かにそのとおりだ。そこには当然選ぶ側の責任が問われることになる。

そこでこの度の都知選はどうであろうか。今回もその恐れなしとは言い切れまい。思いつきや単なる理想を叫ぶだけでは政治は動かすことが出来ない。なぜなら当選したその時から、現実に対処しなければならないからだ。誰を選ぶかは都民の審判だ。2月9日には答えが出る。